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ゆるりとショートショートを書いていきます。

道徳心

「おじいちゃん、大丈夫ですか」
 よろけたおじいさんに僕が手を差し伸べかけた時、横からぬっと大きい腕が飛び出した。その腕の主が、僕の言葉を真似るように繰り返す。
「おじいさん、大丈夫すか」
 寒気のする声の方向を見ると、それは意地悪な目元に笑顔を浮かべたRである。よろけて下を向いていたおじいさんの視点が、大きい腕をつたってRと目が合う。
「ありがとう、君は優しい少年じゃな」
 にっこり微笑んだおじいさんが、腕に巻いたデジタルデバイスを操作し、Rに点数を付ける。すると、Rの腕に巻かれた同じデバイスから電子音を鳴る。この音は、Rの道徳点数がまた上がったことを示している。腕の画面を確認したRは笑顔で、お気をつけて、とおじいさんを気遣った。

 時は二千百年。どんなことでも可視化、数値化し、正しく評価しようと社会は躍起になっていた。道徳点数もその一環で、僕たち小学生は学校の授業だけでなく、日常生活での道徳も評価されるようになっていた。
 その点数で、僕たちの道徳心を測ろうと大人たちは考えたんだ。

「道徳ねーなー。お前もRを見習えよ」
 ガキ大将であるRの後ろで、金魚の糞のような取り巻きがはやし立ててくる。下品な声を出す取り巻きの三人は全員、僕よりも道徳点数が高い。
「困っている人がいたら、優しくしてあげなくちゃ」
 僕よりも握りこぶし一つ分大きいRが、上から馬鹿にしたような声を出す。奥歯を食いしばってRを睨むと、余裕綽々と言った様子で、僕の頭に手をのせてくる。
「学校で習っただろう。困っているおじいちゃん、おばあちゃんがいたら、声をかけてあげましょう。重い荷物は持ってあげましょう。電車で席は譲りましょう。って」
 Rのデバイスが再度電子音を鳴らす。これはさっきとは違って、正しい行いを他の人に教えてあげると上がる道徳点数だ。
「ぐずでのろまな両親を持つ君には難しいことかもしれないけど、困っている人は助けてあげなくちゃ」
 口を歪ませて笑うRに、僕の頭の中で何かがプツンと切れた。頭はしんと静まり、その一方でお腹の底からは黒い炎が燃え上がってくる。気づくと僕は殴りかかっていた。お父さんとお母さんのことを馬鹿にするのだけは、絶対に許せない。
渾身の力を込めた右腕が、Rの顎をかすめる。僕の腕に巻かれたデバイスが、警告音を鳴らした。また僕の道徳点数が下がってしまう。
「暴力はいけないなあ。すぐに手が出てしまうところも親譲りかな」
 Rは決して殴り返してこようとはせず、僕の肩を押して距離を取る。喧嘩を鎮めようとするその姿勢に、Rの腕から電子音が鳴った。
 すぐさま二発目のパンチを放とうとしたとき、金魚の糞たちがRと僕との間に割って入ってくる。
「やめなよ。友達と喧嘩はしちゃいけないって、学校で学んだじゃないか」
 阿呆面の三人が声を合わせると、三つの電子音が鳴る。その音は、彼らを肯定しているようでムカつく。
誰が友達なんだよ。僕は心の中でそう吐き出し、がむしゃらになって彼らに向かってパンチを放つ。僕の握った拳が何かにぶつかるたび、警告音が鳴り、僕の神経をピリピリさせる。その一方で、やり返そうとしない彼ら四人の電子音は鳴り続け、僕を腹立たせる。
彼らのどこに道徳心があるというのか。大人たちは、こんな点数で何が測りたいんだろう。ふと目の端で、僕たちのことを遠巻きに見ている人たちの存在に気づいた。見世物じゃないんだぞ、と映画で見たような言い回しを心の中で叫ぶ。
 腕から聞こえる警告音はより一層強まっていたが、あるところで音が変わった。どこか物悲しい旋律だ。その旋律に、周囲の顔色が変わる。
この音になったということは、ついに僕は「可哀そうな人」と認定されてしまったのだ。道徳の点数が下がりすぎてしまい、道徳の心がない、可哀そうな人と定義されてしまったのだ。

 その瞬間、彼ら四人だけでなく、遠巻きに見てた人たちも一斉に僕を取り囲んで尋ねてきた。
「可哀そうな人。何か困ったことはありませんか」
 一言一句教科書と違いないその質問に寒気がする。僕を囲むのは不自然な笑顔で、目の奥が冷たい。僕が首を横に振ると、周りから大きな電子音が鳴った。それを確認したあとで、僕と距離を置いて満足げにみな離れていく。
 道徳心に乏しい人は、他人の優しさによってそれを成長させる、という論文が出てからは、可哀そうな人に優しく声をかけると、二倍の道徳点数がもらえるようになっていたのだ。
だから、さっき声をかけていたのは、可哀そうな人を助けるためではなく、点数目的で僕に近づいてきたのだった。
道徳心のない、可哀そうなやつ」
 そう誰かが吐き捨てるように言った。